礼拝ってなぁに?

 新型コロナウイルス感染症の影響により、全国に非常事態宣言が発令され、1週間が経過しました。この間、新潟信濃町教会でも、感染拡大を防ぐことを目的に主日礼拝を教会委員各自が家庭で個人礼拝を行うことにしました。

 4月19日に初めて個人礼拝の形式で礼拝を守っていただきました。そのあとで、いろいろな感想やご意見をいただきました。それを通して、「礼拝とはなんだろう、何のためにやるのか?」という問いが頭に浮かびました。

 礼拝というのは、二つの存在の間をつなぐところに行う意味があります。二つの存在とは神様と人間です。旧約聖書に時代から人間はことあるごとに神様の御名を呼び、悲喜様々なことを訴えてきました。アブラハムもヤコブも、ダビデ王もそうでした。また詩編102編では、神様が人間を“主を賛美するために創造された”と考えられています。現代の教会の信仰において、この神様と人間との交わりの場が教会が主の日ごとに行っている礼拝なのです。

 祈りを以って主の御名を呼びかけ、讃美をもってその栄光をほめたたえることが礼拝の大切な要素になっているのです。では、わざわざ集まらなくても、今の個人礼拝の形で十分ではないか、という考えが浮かんできます。しかし、そうではありません。祈りと讃美だけが礼拝を形作っているからではないからです。祈りと讃美は、人間側から神様に向かってお捧げするものです。これだけだと、礼拝の一方の矢印にしかなりません。

 礼拝には神様から人間に向けられる矢印もまた必要になるのです。それが、目に見えない恵みである説教、そして目に見える恵みである聖礼典(聖餐)です。この二つの恵みは、わたしたちに働きかけてわたしたちを信仰者として立ててくださる神様のお働きによるものです。そして、わたしたちを吹けば飛ぶようなバラバラの存在ではなく、一つの揺るがない群れに形作ってくれるものです。この礼拝を通して形作られた群れのことを主の群れ、教会と呼びます。

 ですから、現在の状況において行われている各家庭での個人礼拝は、あくまでも現在の状況下においての苦渋の策、次善の方法なのだということになります。ですが、100パーセント円満な礼拝ではなくても、神様がわたしたちの名を呼んでその御前に集め、御言葉の恵みに与ることで養われようとされていることに、わたしたちは応えなくてはなりません。不十分なものであっても精いっぱいの形の礼拝を、わたしたちは行なっていかなければならないのです。

n これを行なっていくために必要なのは、「仕える」という姿勢です。上で、神様からの矢印、人間からの矢印が教会の礼拝には必要だと申し上げました。これは、神様が人間に仕えてくださり、また人間も神様にお仕えするというふうに言い換えても良いでしょう。神と人間が互いに仕え合う姿が礼拝の根本にあるのです。神様の大きな愛にお答えするには欠けが多くほころびの多いものであっても、心を砕いてお仕えする精いっぱいの姿勢を信仰生活において忘れてはならないのです。

 しばらくの間は一つの会堂に集まっての礼拝は行うことができません。けれども、個々人が神様にお仕えすること、すなわち、神様がわたしたちに恵みを与えようとなさっている祝福のお働きに応えようとする姿勢を守りつつ、個人礼拝を保つことで当面の困難を乗り越えていきましょう。

新潟信濃町教会

〒951-8152 新潟市中央区信濃町17-4 ℡ / fax    025-231-4868 (電話は日曜午前中のみ繋がります) mail ) 休止中 です

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